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2008年8月

人体の不思議

決まった場所で見かける女性がいる。
名前はもちろんのこと、住んでいる所もお仕事も判らないのだけれど・・・
目が会うと会釈するようになっている。
その女性が県民会館で開催されている「人体の不思議展」に行くと言っているのを先日聞いたことが頭に残っていた・・・。
昨日、今日と月末の忙しい時間を過ごし、3時半過ぎてからやっと時間が空いた時に、
ふっと 私も行ってみようかな・・・と思い、用意して出かけたのは4時を過ぎていた。
会期は明日まで。特別見たいとは思っていなかったけれど、その女性の言葉が私を行く気にさせたと言ってもいい・・・。
会場に着いてみるとビックリ・・親子連れ、家族単位でたくさんの人たちで溢れていた。
お天気のパッとしない土曜日だったから余計に入場者が多かったのだろうか・・・?
特殊な技術でからだの筋肉や血管、神経、ありとあらゆる器官をリアルにリアルに(それはそう・・実際の人体だから)細部にわたって見せてくれる展示だった。
何よりも驚いたのは「神経」私はこれまで神経というのは目に見えるくらい太いものだとは思っていなかった。「神経が太い」と言う言葉が笑えないくらいに、形として見える神経の太さにビックリした。
じっくり見たつもりだったが会場を出ると1時間も経っていない・・・。
なんだかこのまま車を運転してサッと家に帰る気分になれない・・と思った。
静かな所でコーヒーが飲みたかった。ゆっくり歩いた。
0830002 中央通りを横切り、桜山神社の鳥居をくぐり、昔からある、けれども 入るのは2度目の喫茶店に入った。5時過ぎの喫茶店はお客は私一人だけ。コーヒーセットを頼んだ。コーヒーゼリーの上にのっているアイスクリームが美味しかった。お店のテーブルにあった大きな写真集を開いてみると、同じ場所から撮った昭和30年・40年代と平成の今の写真とが並んでいて、興味深かった。ワンクッションの時間を過ごし、お店のママさんに見送られて外に出ると土砂降りの雨だった。傘を差し、歩きながら、栃の木の並木から辺り一面落ちている栃の実を3つばかり拾った。
学生らしき女性がずぶ濡れになりながら自転車をこいで通り過ぎた。あらら・・・
向こうからも若い男性3人が濡れながら走ってくる・・・あらら・・・あんなに濡れて・・・
暗くなりかけた道を歩きながら思った・・・。
雨に濡れたら冷たかろう・・・それとも必死で自転車漕いだら汗が噴きだして雨と汗が一緒になるか・・・?
いずれにしても 生きてる匂いがするのだ・・・!
汗の匂い、体臭、触れば感じる温かさ、冷たさ、そして柔らかさ・・
展示されていた身体はリアルではあるけれど・・・それらがない・・
「人体の不思議展」キャッチコピーは”からだのなか、見えないから見たくなる”・・
たしかにそうであるけれど・・・
見えない感情・想い・心・・・は・・? 
私は 生きてる人体の不思議を 強く感じて帰ってきた。



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おさげ髪時代へタイムスリップ

0828003 40年前通っていた高校へちょっとした用事で行って来た。
門柱は当時のままだったが開かずの門?で向かって右側奥の方に通用口があった。卒業してから2度 立て替えられた校舎は新しくなってから3年のきれいな校舎だった。
私が通っていた頃は古い木造校舎で、縦長の窓は下から持ち上げて金具に引っ掛けて止めるというなんとも趣のある洋風建築だった。現在岩手大学の敷地に残っている宮沢賢治記念館によく似た建物で壁面はクリーム色に塗られた横組みの木材だった。
今日訪ねた校舎の玄関ホールには、ガラスケースの中に、当時の校舎のレプリカが飾られていて、一気に思い出が甦り、教室があったのは、ココだった・・とタイムスリップ。
壁の大きな額絵は見ると卒業後 美大に進みその後パリへ留学したという現在はN美術館館長のものだった。他にも書道界で有名なMさんの啄木の歌の書。
歴史の長い学校。当時は今のようにたくさん学校がなかったから、先輩卒業生の方達は学校の名前を言う時、すこ~しだけ、自慢げに顎を上げるような印象を受けるのだが、私の感想は私だけのものかもしれない・・。
私が卒業してから何年も経ってから、叔父はこの学校の校長だった。
青森県の子供時代の頃から、夏休みなど従兄弟たちと真っ黒くなって遊び呆けていると、東京の大学から帰省した、あるいは教師になったばかりの叔父が「通信簿見せろ」と言い、私より成績の悪かった従兄弟たちもみんな一緒に神妙に通信簿を差し出したものだった。ちょっと苦手な叔父で・・その気持は 今も変わっていない・・・。
 学校の前を右奥へ進んでいくと突き当たりは小高い丘、天満宮だ。
啄木もよく歩いたというこの丘へは、小さなキャンバスやスケッチブックを持って登ったが絵を描くロケーションとしては、あまりいいとは思わなかった。連れて行かれたのだ。
用事を済ませ校舎を出て・・(普段は車でサァ~っと通り過ぎていたので気にも留めなかったが自転車というのは立ち止まって見るにはとてもいい乗り物だ・・)大きなケヤキの木などは当時のままということがわかった。そして、当時裏手にあった盛岡短期大学への通路を挟んで当時のままの「T商店」があり、私は思わず自転車を寄せて「ごめんください・・」と入ってしまった。
T商店といえば今も盛岡名物の「だんご」を売っていた。食べ盛りの年頃・・・お昼休みになると、よく誰かがT商店へ買いに行くから・・と串だんごのとりまとめをしていたっけ・・・。
串だんごがあったら買って帰ろうと思ったけれど残念ながら今はもう置いていなかった。
0828016 写真撮影の許しを得て、携帯カメラを向けたのは、当時いつもお店にいたオジサンと呼んでいたT氏の奥さん。
オジサンが亡くなってから何年たっただろうか・・・。
「店は昔のままだよ・・・」と黒電話の前に座って笑顔を向けてくれた。そして懐かしい話をいろいろ聞かせてくれた。
今はもう、学校を抜け出して、あるいは学校帰りにも、お菓子などを買いに来る生徒さんはいないヨ・・と少し寂しそうだった。
私はジュースとパンを買ってお店にサヨナラした。
少し走ると、上の橋。
盛岡市民が愛する中津川は駅方向で雫石川、北上川と合流して北上川として太平洋へ流れる。
この中津川には毎年、太平洋から鮭が遡ってくる。
0828020 上の橋や下流に見える、与の字橋、中の橋の欄干から
みんな川を覗き込んで、鮭の姿を目で追うのだ。
身近にあって、川原に下りれば、散歩したり、川に手足を浸せる安らぎの流れだ。
右側にこんもりと見える木はイチョウ。
道路整備に当たって、道路の真ん中に位置してしまうこの木は当初、伐られる運命にあったが、市民の反対で残った木だ。
そう広くない道路はこのイチョウを道の真ん中に残して右と左に別れまたすぐ合流している。晩秋には まっ黄色に紅葉して下から小さなライトで照らされる。
・・・盛岡の街は小さいな・・・・とはいつも思うこと。自転車で走ってもまぁ・・街中はどこでもすぐ行ける。何しろ一回りする市バスの名前が「でんでんむし号」というくらいだから・・・!!!



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いつか わからないけれど

0826011_4 一生の終りの時が
今日の日没のようならいいな・・と思ったのだ。
真っ赤に燃えるような
特別 素晴らしい夕焼けでなくてもいい。
なんとなくおもしろい雲の形が金色に縁取られているのを ほーっ・・と見上げるような時間があったりするのは幸せなことなのだろう。
0826013_4 田んぼの中を
糸電話の線を繋いだような電信柱が
ずぅ~っと遠くまで並んでいるのを見て
賢治の書いた
本線シグナルと軽便鉄道シグナレスのお話しを思い出したりするような
余計な時間 が 少しあるのは幸せなことなのだろう。
0826010_2 この頃日暮れが早くなって
ズンズンズンと辺りが暗くなる。
どうぞ もうちょっとゆっくり・・・と願っても
時の流れは止まらない。
いつか 否応なく
大切な全てを忘れてしまう時が来るとしても
今この時を生きていられることは
                    ありがたいことに違いない。



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待ちわびる少女の涙の花 チコリ

2008820_002





















草丈は見上げるくらい大きくなるというキク科の多年草草木。
イタリアのリヴォルノの園芸店から種で買ってきたチコリは検索してみると
和名は「キクニガナ」というらしい。
葉や花はサラダに、根はカフェインを含まないコーヒーにもなると知った。
チコリにはイヌリンとラクチュコピクリンという成分が含まれていて、血糖値の上昇を抑制する作用や鎮静作用があると研究されているようだ。
葉を採り終えて畑に残っているそのチコリは
今が淡い藤色の美しい花を咲かせる季節と 思いがけなく 知った。
一本の茎に幾つもの蕾が付いている。
花は今日咲いたかと思うと翌日にはすっかり茶色に萎んでしまっていて、
また新たな蕾が花開いている。
花はたった半日から一日しか咲かない。
そのせいか、あるいは美しい色のせいか、地中海原産のチコリの花にはいくつもの物語が伝わっているとのこと。
いつまで待っても帰ってこない恋人を想い、待ちわびた少女が道端で流した涙がチコリに姿を変えたのだ・・・とか、
(今でもドイツではウェグワート(道で待ちわびる人)と呼ばれている花とのこと)
恋人の乗った船が夜が更けて、そして朝になっても帰って来ずに 帰りを待ちわびて港にたたずんだ少女が流した涙と海の色が一緒になって青い花に姿を変えた・・とか。
いずれにしても儚くロマンチックなエピソードのある花なのだが・・・。
花の咲き方をみていると、どんなに固く小さな蕾でも 待っていれば咲く・・・・。そんな気がする。
ガラスコップに切ったチコリを入れると、底に沈んでしまう蕾が付いていた。
かわいそう・・・咲かせてやりたい・・・
小さなお皿に水を張って立てかけた。こんなでも・・きっと咲く・・・。
かわいそうなエピソードの美しい花にいっとき 咲くという「笑顔」をあげたいような気がする。
エピソードは別として
「待つ」という行為は「待たない」という行為よりはるかに素敵なことのように思える。
小さな蕾が愛おしい。
花が咲くのを待ちわびている 私だ。

2008820_003 200882021

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がんばれ 日本 !!!

北京オリンピック 女子サッカー準決勝

なでしこジャパン
先制点を取ったのにアメリカに逆転を許してしまった・・・!
瞬発力・・・マッスルの違いか?
ハーフタイム
後半何とか頑張って・・!

今日の野菜で 助っ人を作ったヨ !
イタリアの種から出来た短いキュウリ
花豆のシューズ
手足を踏ん張って、顔を真っ赤にして走ってる!
がんばれ 日本!
Photo






















なでしこジャパンのメンバー21歳の岩清水は盛岡生まれ!
お父さん、お母さんは以前 駅ビル フェ○ンで働いていたよ!
がんばれ ガンバレ がんばれ~~~!!!

さ・・後半だ !!!



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チャロはいつも離れなかった

前世、来世、超常現象とかいうたぐいのことを聞く度に
進んで信じようとはしてこなかったが、きっぱりと否定できない理由がひとつある。

子供時代を過ごした青森県、三戸町で物心つくとそばには犬がいた。
柴系のどこにでもいるような茶色い雑種犬。
記憶の無い3歳ぐらいからの写真の傍らには「チャロ」という名前の犬が一緒に写っている。最近 母に「チャロはどこからもらってきたの?」と訊くと「さぁ・・どこだったかな・・?コウズァエ の ダダ からもらったったかな・・?」と その後も最近まで何匹もの犬を飼った母の記憶はあやふやだった。コウズというのは多分”テッポウコウジ”と呼ばれていた近くの地名の略称コウジ、”ぁ”は格助詞”の”の意で”エ”は”家”の方言だと私は解釈する。”ダダ”はやはり方言で”(若くない)その辺のおじさん”だろう。つまり”テッポウコウジに家があり そこに住んでいる他家のおじさん”という意味になると思うのだが、母はこのおじさんをいろいろと「ホマチ」(わずかな臨時収入)をあげて使っていた。例えば、家に何羽もいた鶏のうち、卵を産まなくなったのを選り分けて、このダダに頼んで(頼むという使いはいつも私がさせられた)つぶして(肉を食べるために殺すこと)もらったりしていた。
そうか・・チャロは ダダがどこからか預かってきて我が家にもらわれてきたんだ・・・
すぐ下の妹は私より2歳9ヶ月下、10月19日生まれである。母はず~っと以前に「オマエの子守代わりに犬を飼った。オマエは小さい時からどこにでも行ってしまう子で、よく探しに行かなければならなかったけれど、チャロの姿が見えれば・・あ・・まりもいる・・・と安心したもんだ」と聞かされた。大きい長靴をはいて、リンゴ畑や田畑を遠くまでホッツキ歩いたらしい。
妹が生まれても、母にくっついて泣くことが無い子だったといわれたが犬の存在は大きかったのだろうと思う。チャロはどんなに幼かった私が手に食べ物を持っていても、食べたそうなそぶりは微塵もしない賢い犬だったとか、学校に入ると下校時間になると、チャロの耳がピクリと動くと一目散に通りに走っていって、やがてオマエと一緒に帰ってきた・・とか聞かされた。
私が3歳の時チャロも3歳、つまり同い年。
国鉄職員だった父はそれまでは八戸尻内など通勤可能な勤務地だったが私が小学校6年生になる時、岩手県の地方に転勤することになり、私達も転校を余儀なくされた。12歳は犬にとってはもう「老犬」。リンゴ農家の祖父母も両親も小さな官舎に犬は無理だろうと、そのまま置いていくことになった。いよいよ出発というその時、祖父母の家の前からハイヤーに乗って駅まで向かう時もその後も私は犬との別れが辛くて泣いた。行った先の学校は小さくて、思春期に差し掛かった私は凄くいじめられた。ここには書かないが、もう少し弱い?子だったらどうなっていたかわからないような本当に酷いいじめの毎日だったような気がする。
一ヶ月ぐらい経ったある夜、私は夢を見た。
橋の上を犬と(チャロか他所の犬かわからなかった)歩いていた。
橋の真ん中まで来ると犬の首がカクンと前に折れた。慌てた。
・・・が夢はそこまででその後どうしたか覚えていない。
母も父も慣れない暮らしに疲れて口論が絶えなかった。私は学校のいじめも犬の夢も、余計な心配をかけたくないとだまっていた。
それから三日ほど経って、学校から帰ると母が「チャロが死んだと・・」と一枚のハガキを差し出した。祖父の字だった。読むと、私達がいなくなってから、チャロはいくら祖父がご飯をやっても食べなかったと。最後は藁小屋の後ろで死んでいたと。私達の家から祖父母の家に行くには敷地の中の鶏小屋、カナリヤ小屋、藁小屋、籾小屋、豚小屋、蔵、そして更に三つほどの小屋と外風呂、井戸端を通って行くので藁小屋は必ず通るところで、農作業に必要な藁は屋根のかかった小屋にうず高く積まれ、私はよくそこに入り込んで遊んだものだった。チャロはあの辺りでウロウロしながら私が帰るのを待っていたに違いない。ハガキにはチャロは橋のそばの土手に埋めたと結ばれていた。官舎の狭い台所の流しの前に立って、私は長いこと泣いた。
転校してから初めての夏休み。私は待ちきれずに祖父母の家に行った。祖父は私を犬を埋めた場所に連れて行った。ドジョウ掬いをして遊んだ 田んぼ道を通り、南部さんの本家のお城のあった城山に通じる橋(ここで水浴びをよくした)のたもとの土手を祖父が掘ると、犬の手の先がまだ、そのままの状態で、少し現れて、私はまた泣いた。
あれは、正夢・・?チャロは死ぬ時私に会いに来た・・・?夢を見たのとハガキが着いたのはピッタリと日数が合った。そして橋。
これが理由で、私は超常現象とかいうものを否定できない。
もし来世があるとしたら、またチャロに逢いたいものだ。
振り返ってみて、私の生きてきた中で、お金のことも、仕事のことも、しがらみや家族関係のことも全く心配することなく、自由に遊べた宝物のような思い出の10年間ではなかったか・・・?私にとっては無二の犬、忘れられない チャロは 離れずいつも私のそばにいた。



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初めての老眼鏡

先日、東京に帰る娘を送って駅まで行った時に
駅ビルの中を歩いていて眼鏡屋さんの前を通った。
いつもなら通り過ぎるのに、その時は少し時間に余裕があったのと
GUCCIの眼鏡が似合っていた娘に触発されたわけではないけれど
お店の最前列のケースにはきれいな色のメガネフレームがたくさん並んでいて
ちょっと手に取ってしまったのだ。
かけてみると娘が「母、よく似合うよ」と言った。
並んでいたフレームの多くが表と裏の色が違っていた。
私が選んだものはワインレッドの表にブルーグレーの裏。
セルフレームだから陽に透かすときれいに薄色になる。
店員さんが寄ってきて、値段を聞くとレンズも入れて7350円だという。
エ~?安い・・・
・・ということで度数を調べてもらって初めての老眼鏡を衝動買い。
軽い近眼のせいか、今まで老眼鏡のお世話になることは あまり無かった。
新聞もパンフレットも文庫本も裸眼で読めていた。
針に糸を通す時、辞書で画数の多い漢字を調べる時だけ、
夫が100円ショップで買ってきた一番軽い度数の眼鏡をかけていた。
衝動買いの遊びの眼鏡に さてどのレンズを入れようかと思ったときに、
近眼の眼鏡は持っているし(普段殆ど使っていない)
これから少し文字を読む機会が多くなるかもしれないからと老眼鏡にした。
サービスの眼鏡ケースは目立つように内側が赤、外側が黄色の物をお願いした。
005











今日、日曜日、一日中ゆったりと過ごした。
夫が読み終えた小説現代を二階で横になって読んだ。裸眼でも読めるのだが、
この眼鏡をかけるととても楽な気がして、長いことかけて読んだ。
窓からは寒いくらいの涼しい風が入ってきた。
夕方になると虫の音が聴こえてきた。秋がやってくる・・・・

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北京五輪開幕

Photo_2 数々の魅力ある映画を提供してくれる中国の映画監督
チャン・イーモウ(張芸謀)により演出されたオリンピックのオープニングショウは美しい色調で長い歴史と伝統文化の重さを感じさせる素晴らしいものだった。裏側にはたくさんの問題を抱えてはいるが、国家の威信をかけたオリンピックは兎にも角にも華々しく開幕された。期間中何事も無く、平和のうちに、スポーツの技が競われるように                  と願っている。
写真のオリンピック入場券は、もちろん私のものではなく(笑)先日我が家に遊びに来た中国人家族に見せてもらったものだ。相当難しいといわれたチケット入手が思いがけなく8枚も手に入ったことをとても嬉しそうに話してくれた。
Kさん、Sさん夫婦と二人の子供達、10年ほど前にKさんは岩手大学大学院を卒業し、お国に就職し帰国していった。当時クリーニング工場でアルバイトをしながら夫を支えたSさんに私は週一回ボランティアで日本語の相手をした。
彼らには北上に当時保証人だった人がいる。
7月末の午前のことだった。電話が鳴った。「Kです。家族で日本に来ています。先生に(私は先生ではないのだが、みんなそう呼ぶのだ。まりこ先生と・・)ご挨拶に伺いたいのですが、今日のご予定は?」・・いきなりだなぁ・・・と思ったがせっかく会いに来てくれるというのだ。「待っているよ。どうぞ」と答えると、彼らは北上から午後1時半頃になってやってきた。
そしてどうしても一緒に行きたい所があると言った。
昔、日曜日、Sさんが日曜出勤の時、休みのKさんは幼い子達を連れてKアネックスデパート一階の「ピザ・スパゲティーランチ食べ放題」によく行ったのだと。子等は勝手にあちこち走り回り、近くのテーブルのおばさんたちが見兼ねてお世話をしてくれたらしい。
「あのおばさんたちは、言うことをきかない悪戯子供を抱えてこの男は可哀相に奥さんに逃げられたのではないか・・?と思ったことでしょう・・あの店があるなら、ぜひ行ってみたい。苦労していた頃の思い出です」と言った。まだあるかどうか行った事の無い私はわからなかったので問い合わせるとランチは3時までやっているとのこと。店まで急いだ。
私の分まで前会計を済ますと、彼はさっそくプレートに山盛りのピザとスパゲティーを盛って、嬉しそうに席に着き食べ始めた。
「懐かしい味です。中国のピザより美味しいです」といいながら立て続けに3回同じように盛ってきた。可笑しかった。皿への盛り方にはデリカシーも何も感じられない。とにかく山盛りなのだ。そしてやっと一息つくと私にいろいろな話をした。
二人で10年間ガムシャラに働いてきたこと。そしてやっと、一生働かなくても食べていけるだけの大きなお金を貯める事ができたと。家も二つ持って、Sさんは高級外車アウディーに乗っていると。会社を辞めて、自分で事業を立ち上げると。当時駆け回っていた子供達は、今は反抗期。中学と小学校5年になったと。高校受験を控えてサッパリ勉強しない。困りましたと少しさびしそう。
・・・でも私には賢い子達に見えた。強い両親にちょっぴり反抗してみたい年頃なのだ。反抗しながら多分しっかりと見、聞きしているのだ。口数が少なく少しナイーブに見えるシンリュウもきっと、両親の期待通りの「いい学校」に入るルートに乗っかることだろう。
昔、納豆とイクラの大好きな保育園児だったシンリュウ。シンヤが生まれたときにはSさんが入院している間、2晩ほど預かってお風呂にいれ一緒に寝たことがある。中学生になって身体は大きくなっても私にはクリクリ坊主頭を撫でる権利があるような気がした。親しみを込めて頑張って・・と握手して覗いた彼の目は穏やかだった。
Kさんが尚も続けた。「先生、私達は豪華な食事も出来るお金を持っています。でも大変だった頃食べた味を思い出したくてどうしてもここで食べたかったんです。いっぱい食べて満足しました」Kさんは大きな身体。立派な?お腹はピザとスパゲティで膨らんで?さらに立派に見えた。
食事の後は大学構内を散歩、そして我が家で少しゆっくりした。Photo
仕事の出先から夫も寄って、暫し歓談。
彼らが帰国してから2度目の訪問だった。
今回は10月予定の来日を、お世話になった方の病気お見舞いのため急遽オリンピック前に繰り上げたのだと聞いた。
いつも、真面目に「遊びに来てください」と言われることが多い。
今回もハルピン出身ながら現在はシンセンに住んでいる彼らに
「香港まで迎えに行きます。往復の飛行機チケットだけ買って来てください」と言われた。
多くの留学生や外国人達と関わってきて
私は見返りを期待したことは一度も無いときっぱり言える。
逆にいろんな国の彼ら彼女らから教わったことは限りなく、そして彼らがいるから
私自身も勉強出来てきたのだと思っている。
何年経っても、訪ねてきてくれたり
地震や折々に地球の反対側から電話をかけて心配してくれたりする人たちがいるというのはほんとうに嬉しいことだ・・・。
彼らにとって、こんな私が 思い出したり、会いたかったりする存在なら、
・・・・私は元気でいなければいけないな・・・ と あらためて思ったりするのだ。

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居心地のいい場所

O_2 Oo







日中は暑くても立秋の朝はさすがに秋かと思わせるような風が吹いた。
手入れもしない狭い庭にある朝 ふっと気がつくと小さな花が咲いていたりする。
土・いのちの不思議を感じる一瞬になる。
我が家の猫、
一日に何度も「外に出して・・!」とせがむ。
毎日ご機嫌伺いにベランダにやってくるクロコ(と、勝手に呼んでいる)や
近所に飼われている異父兄弟のはずの猫達と相性が悪くて・・・
外に出る時は決まって周囲を見回し警戒の足どりで出て行くことになるのだが
それでもやっぱり外に出たいのだ。
今日もひっそりと 陽射しを避けて、
ツルニチニチソウの下草と白い山吹の木の下に
スッポリと入って目を細めている。
お気に入り、居心地のいい場所
    きっと 誰にも ある・・・

Photo

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2008-8-5 晴れ 

Honyo 15時 今日の最高気温31度。
穏やかな夕暮れ
夜になって細い三日月お月さま。

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わたしを束ねないで

わたしを束ねないで
             新川和江

あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色
(こんじき)の稲穂

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃
(はばた)
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注
(つ)がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮
(うしお) ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
(コンマ)や (ピリオド)  いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩




20代で買った詩集の中のこの詩が好き。
時々本箱から取り出す。
かわりなく
そうだよ・・・  と確かめたくて・・・

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