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2008年3月

祖母

書き始めたのにきちんと締めていないことが気になっているがどうやってオシマイにしたらいいのか迷っている。思いつきだけの私だ。考えてみると亡くなってから27年にもなるのに、私はなにかにつけて未だに祖母を度々思い出す。「シメ」ができないのは私の中にまだ祖母が存在するからなのだろうと思うに至った。人には寿命があって、いつかは必ず誰もが死を迎える。けれども私がこうして祖母を思い出すうちは祖母は私の中に生きていることになるのではないだろうか・・・?死んでもなお、祖母からの教えや戒めは威力を保っている。手足は不自由だったが、きれいで(誰もがそう言っていた)聡明で強い人だったと思う。家に来られたお客様はみなさん、祖父と同じように祖母にも挨拶していた。ふっと祖母は「座敷童子」のような存在だったのではないかとこれを書きながら今思った。ザシキワラシは家の守り神、福をもたらし、ザシキワラシのいる家は栄えると、民話に伝えられている。祖母のいる頃の家は活気があった。時代の流れは移ろうのが常だけれど、思い返すと光が当たったように輝いている時代の思い出の中にさらにキラキラと祖母の姿が見えてくる。偉大な祖母だったと思う。翻って私にも孫達がいるわけだが・・・彼らの思い出の中に私は存在出来得るだろうか・・・?自信がないな・・。特別なことは何も出来ないけれど、せめてケーキ作りの仕上げにイチゴを並べたとかガンヅキを作る時、粉をかき混ぜたとか・・・覚えていてくれたら嬉しいな・・。子育てという作業から一つ抜けたプラスアルファの部分で孫達に関わっていけたら嬉しいことだろうと思う。

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雪解けの山麓に春が来た

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座禅草、シュンラン、鶯神楽、リス?が落としていった胡桃の殻、エビネ(地面にはねずみの穴がいっぱい)、クロッカス、蕗の薹、林に一歩足を踏み入れるとかわいい春の使者たちがあちこちで顔をのぞかせてくれる。私を元気にしてくれるのは、こんな所。

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祖母 ③

明日は日曜。少し夜更かししてPCの前。座っている机の前のカーテンの合わせ目の細い隙間の丁度そこに満月のお月さまがいた。サッシガラスの上に天ガラスがついているので高い位置のお月さまが丁度目の前てっぺんに見えている。きれいだなぁ~。しかしこの時間、カーテンを閉めてたまたま開いていた3センチほどのそのすき間にピッタリと・・どうしてそこにいるの・・・?5センチ違っても15分時間がずれてもきっと真正面、私の目には飛び込んで来なかった筈。お~い!満月のお月さまぁ~!こんな時にはなんだか偶然ではない不思議を感じてしまう私だよ・・。「ヒデさん」はいつもいつも空を見上げては雲の流れ風の速さを見ていた。「雨になる」「雷様(らいさま)が鳴る」ヒデさんの天気予報はいつもその通りになった。私の記憶にあるおさんは立って歩くことが出来なかったから一日たりともこの家からどこかへ出かけたことがなかったように思う。今思うとなんだか切ない。農家だったからお天気を観るということは大事なことには違いなかっただろうけれど、おさんは空に何を見ていた・・・?娘だった頃の大きな家か・・?自由に駆け回った野原か・・?一旗あげようとした両親に連れられて渡った広い北海道か・・?治療のために2ヶ月を2回繰り返して滞在した東京か・・・?時々「カラス鳴きが悪い。何事も良くないことが起きません様に・・」と言っては神様ご先祖様に家内一同の無事安全を祈っていた。鳥のように翼があったら・・・と思ったことは・・・なかっただろうか・・・。幼い私はそこまで考えることはできなかった。毎日ランドセルを置けばおさんの所に走っていくのも、おばぁさんを思ってのことではなく、ただ何となく足が向いただけのことだった。「まりか・・?いいところにきたな・・・」私の顔を見ると、おさんは決まってそう言った後に、その日によっていろんな言葉が続いた。私の好きな「ニューシネマパラダイス」という映画のアルフレードがトトに残した上映禁止でカットされたkissシーンを繋げたものがえんえんと続くように、懐かしい祖母ヒデおさんの言葉は口元の形と共に今も私の耳に声としてしっかり記憶に残っている。「まり、髪結ってけろ。オマエは力が強くてギリッと結えるからいい。まり、胡麻炒れ。焦がすなよ。まり、ぬか袋で廊下拭け。角っこもちゃんと拭けよ。まり、はっと(殆どは乾麺)煮ろ。(竈だったから大変だった。硬さを訊くために1本2本祖母に運んでヨシ!をもらった)まり、室(ムロ=タタキの地下にムロがあった・・かび臭い所で入るのがイヤだった)からさつま芋持ってこい。(傷んでいた部分を切り落とすのは何となくイヤだった)まり、胡桃一緒に擂るべ。まり、蔵に連れてけ。(リヤカーで蔵まで運んだ)まり、ほら、団子け・・(食べろ)、まり、さぁ、昔っこ(昔噺)するか?まり、二階の窓外の干し餅持ってきてみろ。」まだまだ・・まだまだ・・きりがない。傍にいる孫たちの中で女孫としては私が一番大きかった。

200771_031 写真は裏山の神社脇、橇遊びに夢中になった坂道だ。
子どもの頃は左側は転がっても大丈夫な・・しかし、急な
崖で見晴らしが良かったが、去年行ってみると、すっかり
草木が繁って見晴らしが悪くなっていた。箱橇、舵付き橇みんな木や竹や鉄で作ってもらった手作り橇だった。今のような軽いプラスチックのものなど無い時代だった。

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祖母 ②

200771_004_2 三戸のおさん「ヒデさん」は五戸町の荷軽井(にがるい)という所から私の祖父安太郎に嫁いだ。何代も遡って系図のある由緒ある家の娘だったと聞いたが子ども時代に家業が危うくなり家はそのままに一旗上げようと北海道に渡った若夫婦親に連れられて何年かをそこで過ごしたが母親が33歳で亡くなり、戻ってきたのが15・6歳の時だったようだ。その後で町会議員だった与太郎夫婦の長男だった祖父のところに嫁としてもらわれてきたとのこと。姑がきつい人で・・・というのはよく聞く言葉だがヒデさんにとっても同じことで、2男6女、8人の子を生し、2人を流産した彼女は、姑に流産を隠し、身体を労ることをしないまま、農作業や家事をこなし、電化製品の皆無だった当時を働き切ったようだ。当時は馬車で荷物を運ぶ時代だが、祖父が若いときにはいち早くトラックを手に入れ運送業のようなこともしていたようだ。今85歳の私の母は上から4番目の子に当たる。母が17・8歳の頃には祖母ヒデさんのリュウマチは悪化し祖父は東京の病院まで治療に連れて行き2ヶ月ほど入院もさせたとのこと。けれども病状は思わしくなく、母が結婚するあたりには既に足も手指も萎え始めていたようだ。私が物心ついて記憶に残る祖母は家の中を居ざって動いていた。昨年、今は私の従兄の代になっている祖父母の家で祖父、祖母、伯父、伯母、従兄など亡くなってしまった人たちのそれぞれの回忌法要がまとめて行われ、私は母に同行してしばらくぶりに子ども時代を過ごした三戸に行った。。

200771_023_4 200771_016_4 小学校に上がる頃に建てられたこの家はもう築50年は経つことになるが山から切り出した材木で建てられた家は今も頑丈さに於いて変っていない。祖父が書家に頼んで書いてもらった襖もそのままでビックリさせられる。襖を開けると奥にはまだ部屋が続き、今は70歳を過ぎている叔父の祝言などはここで行われた。きれいなお嫁さんが静々と入ってきたのを私たちは障子の陰から見ていた。裏には100年以上も経つ大きな蔵もあり、林檎畑が続いている。思い返すに、この大きな家の中で日中の殆どの時間は祖父母だけだった。隠居していた祖父だが、こまごました外仕事やら、町内の役や別当様と呼ばれた役目が祖父にはあり、祖母一人のことも多かったはずだ。「するまって歩く」と方言で言われる「いざって動く」祖母の日常は大変なことだったのではないかと想像する。しかし同じ敷地に住んで学校から帰るとランドセルを放り投げて祖母の所に行っていた私には、祖母の権力は絶対のように見えたものだった。身体は動かないものの大きな声で家を動かしていたように思う。

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祖母 ①

孫がいる身だから、私も孫からみたら祖母になる。一番大きな孫は5歳でかなりのことが解かっていて、大人の微妙な力関係などもそれとなく理解しているのではないかと思わせられることがある。彼女は私をおばあちゃんとは呼ばずに「まりちゃん」と呼んでくれる。一番初めの孫だから一番長く付き合っていることになるわけで、私は時々祖父母と孫の関係を考えることがある。青森県三戸で子ども時代を過ごした私には「おばさん」(”ば”にアクセントでおばあさんの意味)と呼ぶ人が3人いた。一番深く付き合った?三戸の母方祖母「ヒデさん」そして父方の盛岡のおばさんこと「エスさん」もう一人ルソン島沖で戦死した兄の父の母にあたる「矢巾のおばさん」こと「タツさん」の三人だ。矢巾のおばさんは風呂敷包みを背負って来る時はいつも「ミツルくん」という私より二つぐらい年上の男の子を連れてきた。ビー玉やその辺をあても無く遊び歩く時ミツルくんも一緒だったが、父が転勤で三戸から出てしまった小学6年以降は私はミツルくんに会っていないし、おばさんにも会っていない。兄は何度も会っているだろうけれど、私の中での矢巾のおばさんはその時限りのままだ。ミツルくんは兄の従弟なのだろうけれど、はっきり訊く機会も無いままに私にとっては顔も思い出せない存在になってしまっている。ミツルくんは遊んだことのある私を私がこんなふうに思い出すように思い出してくれることがあるのだろうか。盛岡のおばさんはいつも着物に上っ張り姿で汽車に乗ってやってきた。盛岡の醤油団子、みたらし団子をいっぱいお土産に持ってきてくれた。その頃父が勤めの帰りにお土産に買ってきてくれる団子は小豆団子か胡麻団子だったのでしょうゆ味の団子は珍しいと思った。面長でただただ優しく、三戸の方言にドップリつかっていた私にはおばさんの話す盛岡弁は耳に優しく独特の柔らかい響きがあった。手の甲にはペショペショと柔らかい筋と皺。今思うと父は祖母によく似ていた。叱られた記憶は一度も無い、やさしい祖母だったということはたまにしか会わなかったということでもある。いずれにしても子ども時代の私にとって三人の祖母はいかにも「あばあさん」という年齢に相応しく思えた。自分のことを比べ見るとき、私はまだまだドップリのおばあさんではないぞ・・という気がしてしまうのだが・・・こういったら笑われるだろうか・・・?三人とも長命だった。みな90歳、いえ聞くと矢巾のおばさんは100歳直前まで生きたとのこと。私にも「長生き」の血が入っているのだ。

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今日はいいお天気で明日のお彼岸の入りを前に二つのお墓のお掃除をしに行ってきた。先月の月命日にはまだあった雪も今日はすっかり消えていて、お掃除もし易かった。お墓と家と4箇所分、二人の母に買った春らしくきれいな色をと選んだお花はとても喜んでもらえて、良かった・・・。行き帰りに見た岩手山や三山、周りの山々は今日も思わず声をあげるほどきれいだった。

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触れてはいけないこと

夫と結婚して34年が過ぎ35年目に入っている。この長い年月本当にいろいろなことがあったけれども振り返ってみて夫婦の単位として考えた時に「私は幸せなのだろう」と思えることは幸せなのに違いない。取り巻き関わる人たちのことについては大小さまざまな悩みや困惑もあったけれども、通り過ぎてしまえばそれはいつの間にか、甘かろうが苦かろうが「思い出」として語りあえるものになる。贅沢はできないけれど、毎日手をかけたご飯を食べ、こうして特別な病気もなく健康で働いていられることはありがたいことだと思っている。「優しいご主人こそがあなたの幸せよ」とよく言われる。自分でもそう思っている。と同時に「あなたがいたから彼はやってこられた」とも言われ私の頑張り?も周りの人は見ていてもくれる。それまでかなりきつく育てられたので、結婚して一週間後に思ったことは「自分が感じ考えることを否定されたり規制されたりしないことってなんて自由で嬉しいことなんだろう!」ということだった。経済的、生活レベル的打算は皆無だったから、精神の自由こそが私にとって最も嬉しいことだった。社会のことに目を向けたり、考えたことを行動に移すことができてきたのは、彼のおかげだったと感謝している。毎日食卓を共にし、会話をし、離れることなく暮らしてきた。お互いの理解度は高パーセンテージだと思っている。その彼だが・・たった一つ触れてはいけないことがある。些細な・・本当に小さなことなのだが、私がそれを言うと地雷を踏むことになる。私を一番理解してくれている彼だからつい聞いてもらいたいと思うことがあるのだ。「そうかぁ」と聞いてくれるだけでいいのに、ことそのことに関しては「聞きたくない」と突っぱねられてしまう。心が大きいと思っている彼がどうして「そうかぁ・・」と聞くだけのことが出来ないのかと・・・突っぱねられた私の気持は行き場所を失う。重ねて言うと彼は怒る。滅多にしない夫婦喧嘩の理由は「それ」だ。スパゲティーが入った皿をひっくり返した。そばにあった電気スタンドを壊した。テーブルの角を傷つけた。・・・私に向かって手をあげないからそばにある「物」にあたることになるのだ。35年の間に指を折って数えられるくらいのことだから大したことではないし、そのことの後には彼は結局、純木のテーブルの角をヤスリできれいにしたり、電気スタンドを買って来たりすることにはなる訳だけれど、私は未だに「そうかぁ・・」と聞いてくれないそのことだけ、納得出来ないでいる。「それもこれもあり・・」と多くは望まず、殆どのことは受け入れられる自分ではないかと思っている。97パーセントはこれで良いと思っているその残りのたったの3パーセントの???が触れてはいけない「それ」なのだ。解かっているのに敢えて地雷を踏んでしまう私は「賢くない」女ということになるだろう。

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一本桜と岩手山

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地面の雪はたっぷり水分を含んでいる。そろそろ雪も消える。4月の下旬になればこの一本桜も花を咲かせる。雪が地面から消える前にカメラに納めておきたかった。
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見上げれば花まだの枝その上にゴンドラの月三月の星

あいたくてまた駈けて来たよ岩手山胸かろくなる大いなる山

仲良くに二つ並んだ足跡の物語りせん名残りの雪野
   
   
   

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蕗の薹

コロコロと小さく愛しい 蕗の薹。いち早く 「春だよ」と告げに 私のところに来てくれた。
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004 去年の秋に木からもいで干した柿は硬くなってしまっている。だからお酒(ブランデーやワイン、焼酎なんでもいい)に浸けてタッパーなどに入れて冷蔵庫で寝かせると柔らかくとても美味しく、リッチなおやつになる。食べるにはあっという間だけれど、どれだけの手間がかかっているかを考えると、もったいなくありがたい気持で食べることになる。写真は友人が持ってきてくれた干し柿。我が家の干し柿もお酒に浸かって冷蔵庫にあるが、干し柿にも個性?いや・・干した人の、いや・・その家の・・干し方がそれぞれあることを食べ比べて感じさせられる。木箱に入れたまま寒さに当てて自然に渋が抜けるのを待ったペチョペチョになっている柿もある。これは薄くなった皮を丁寧に剥いてそのままあるいはヨーグルトなどをかけて食べる。001 シワの寄った柿も中はトロリと、またそれなりに美味しい。何よりも無添加自然食品であることが誇らしいではないか・・。タイトルは「柿」だから去年木からもいだばかりの柿の写真も添えておこう・・。私は「留守番柿」「木守り柿」という言葉を数年前まで知らなかった。Photo柿をもぐ時は神への感謝と自然に生きるものたちへのおすそ分けにいくらか梢に残すもの・・と聞いてからそのことを実際梯子に登る息子にも伝えながらもいでいる。神や自然への感謝、柿だけには限らないような気持でいる。 母の庭で収穫した柿・・半分以上を私が食べていることは間違いないことだ・・。

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英語

昨日の朝○新聞に脳研究の池谷氏が日本人の英語についてまるで便秘のようだー。との文を書いていた。話す前に頭で考えすぎてしまい、言葉がスラスラと出てこないという意味だと・・。日本人流の発音はネイティブスピーカーにもそうでない人にも、とりわけ聞き苦しいことで知られる。「ジャングリッシュ」と揶揄される我々の発音は、通用しないことも多いとも。先日テレビを観ていて感じたことがあった。マラソン優勝者への通訳者のインタビューに対して優勝者が「Pardon?」と訊き直す場面が2度ほどあったのだ。私はそばにいる夫に話しかけた。きっと文法的に間違いの無い、丁寧な英語で質問しているんだよと。ケニヤ出身という優勝者の答えの言葉はまさしくケニヤ訛りのシンプルな英語だった。きちんとした場所で書いたり話したりする英語には自信が無いけれど、日常会話なら、私は幸いなことに大学の近くに住んでいて、たくさんの世界中からの留学生に関わる環境にあったので、肌の色や衣装から想像を抜きにしても、アフリカ英語、アジア英語、アメリカ、オーストラリア・・・それぞれのお国訛りの英語が聞き分けられるようになっている。池谷氏はこうも書いている。日本人は英語を読んでいても、日本語専用の脳回路を利用していることがわかった。英語脳になりきれないわけだと。昔、少し頑張って英語を覚えたいと思っていた頃、夜、布団に入ってからその日一日の出来事あるいはその日感じたことを、頭の中で日記風に英語で、考えずにズラズラ述べて・・・そのうちに眠ってしまう・・ということをしていた。少ないボキャブラリーで解って貰えるように頭に描いた誰かわからない相手に向かっておしゃべりしていた。このことがきっと海外へ旅するときも「ま・・何とかなるに違いない」と思わせる自信につながっているような気がする。偉そうに・・こんなことを書いている私だが、文法もスペルも全くいい加減で、テストをしたら・・・きっと赤点だ・・と 思っている。

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からぶりの日

ここ一週間ほど考えていたこと、新しいチャレンジの締切日。50パーセントの駄目もとでやっちゃえ~!という気持と、50パーセントのイヤイヤ・・私などこの歳で、いきなりの思いつきで出来るものではない・・努力を重ねてきた若い人たちがいるのだから、笑われに行くようなことはやめたほうがいい・・考えに考えて結局気持を引っ込めた。お昼過ぎ、気分転換に前回から7週間が経ってしまったおかっぱ髪を切ってもらおうと、行きつけの美容院に電話を入れると、今日はとても混んでいて夕方までスタッフの手が空かなそうな感じ。「ではまた後で・・」と電話を切った。たった二つの引っ込めた気持が、行き場を失ってウロウロしているような土曜日だ。
午前中洗濯に新しい洗剤の箱を開けた。中には目盛りのついたスプーンが入っている。
いつも思うのだ。もったいないな・・と。003 子どもの頃のままごとには、ドロップの缶や、口の欠けた急須やひびの入った茶碗や皿、なんでも大事な遊び道具だった。こんな柄のついたスプーンがあったらどんなにオシャレな気分で遊べたことか・・・。昔を思い出しボーっとしていると、辺りはそろそろと暗くなって、カーテンを引き、ヒーターの設定温度を少しだけ上げた。

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イナゴの佃煮

001 子どもの頃は青森県三戸町で育った。祖父母の地だ。林檎畑や田んぼが遊び場だった。稲刈りの頃、稲の中から飛び出してくる蝗は まぁ・・遊び仲間のようなものだった。ある日近所の友だちが袋に入れたものをポリポリ食べていた。何か・・と訊くと「イナゴの佃煮」だという。私は食べたいとは思わなかった。前に書いた鶏にやったドジョウと同じであまりにも身近な遊び仲間?ゆえ、口に入れようという気が全く起きなかった。当時は貴重な蛋白源として、どこでも作られていたのだろうか?ある日、母もこれを作った。恐る恐る口に入れてみたが頭の中で飛び跳ねるイナゴの姿が渦巻いて、味わうことも飲み込むこともできなかった。母の作り方が悪かったのか、私のイメージが強すぎたのか、なにか生々しい気がして・・以来一度も口にしていなかった。友人が作って保存していた・・とイナゴの佃煮を持ってきてくれた。姿がそのまま分る。どうしようかと迷ったが、友人の作るものに対する信頼感がエイッと口に入れさせた・・・。・・美味しいでは・・ないか・・・。カリッと歯ごたえがあって香ばしい。噛み、そして飲み込んだ。初めて イナゴを食べた。

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3月3日

2008 立春を過ぎた頃からいつも決まって、いつお雛さまを出そうかと落ち着かなくなる。段飾りではなく娘のために買った木目込みの内裏雛。いつの間にか大内雛やべんぽう雛、下川原雛、それにお米でできた小さな小さなおひな様や、大豆でできたお雛さま、奈良の一刀彫などなど・・各地の小さなお雛さまが増えてみんな一緒に並べている。御所車をいただいたり、友人がお飾り用のお振袖を縫ってくれたり、ずいぶんと華やかさが増したように思う。今年も飾れて良かったな・・・。近所のお団子屋さんから桜餅と花饅頭を買ってきた。

Photo_2 Photo_3 いつもは玄関にある階段ダンスに飾る。インドネシアで買って来たお人形や、盛岡の作家さんが作った陶雛、娘が生まれたときお宮参りした神社のお雛さま・・・玄関を開けて見えたお客様は「あら~」っと声をあげる。お雛さまのおすそ分け。本当の理由は我が家には猫がいるから、悪戯されないように戸を締めてしまえる玄関・・そして階段ダンスに飾るのだ。

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