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2008年2月

febbraioからmarzoへ

2月も今日でオワリ。明日からは3月。この一ヶ月、旅の忘れたくないあれこれを書いてきた。いつまでも留まっているわけにはいかない。書き残したことを幾つか書いたら明日からの3月に向き合おう・・。【 イタリアのスーパーマーケットで感じたこと 】お客様は神様・・私がいつも行っているスーパーのレジさんの親切なこと・・。豆腐や肉類やそれぞれさらに小袋に入れてくれて・・なにかに注意を払ってくれる。イタリアのスーパーに何度か行ってみて随分違うと感じた。Photo_2 まずレジ係は立ち通しの日本と違い腰かけている。買い物客はレジの列に並び自分の番が近付くと買い物籠に入れた商品を全部自分でベルトコンベアのようなレジ手動のカウンターの上に載せる。レジ係は商品をガラスセンサー計算機のような所へ当ててコンベアーのようなものを手繰り寄せるだけ。前の人と次の人との商品の仕切りは写真②のような三角柱のボール紙筒のようなものを置くだけ。計算金額を伝え、お金を受け取りお釣りを渡す。レジを通した商品は傾斜のついたコンベアからこれまた単純に斜めに仕切られた商品行き止まり場所にストンストンと送るだけ。お客は忙しい。お金を払い、ポンと渡された袋に、大急ぎで詰める。でないと、次の人の商品をレジ係が送れないから・・レジ係は堂々と、お客と同等のような感じで仕事をしていた。Photo_3 【 湯たんぽ 】スイスの山のセカンドハウスにあった湯たんぽは、氷枕のようなゴム製だった。口の所だけ、回して締める形の栓があって、これだと熱を出した時の氷枕にも、寒い時の湯たんぽにもなって便利だな・・と思った。Photo_2 【 BAR カップチーノ 】街のあちこちにBAR(バール)がある。人々は気軽に日に何度も立ち寄りコーヒーや簡単なハムを挟んだパンやジャムなどの入った甘い菓子パンを食べる。急ぐ人はカウンターで立ち飲みすることも多い。コーヒーが一杯1ユーロ(160円)か1.5ユーロぐらい。マスターは気が向くとココアパウダーでお顔を描いて出してくれたりする。写真は帰りの空港に向かう直前にミラノの街角で飲んだカップチーノ。あまりの可愛さに一口飲んでしまってから(白い部分)デジカメを取り出して撮ったもの。Bar_001 Bar 私の今回のイタリア旅行は残念ながらマンマの死を確認しただけだったけれど、終わってみれば、全くこのカップチーノくんの笑顔のようだった。いい旅だった。

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ミラノ 最終日

飛行機はMalpensa空港15:15発。やりたいこと、行きたいところ、全部して・・思い残すことは何も無かった。気になることが一つだけ。それは買い物。家族にもいつも顔を合わせている友人にもお土産を買っていないということ・・。急がねば・・・とPam(スーパーマーケット)へ急いだ。チーズ(種類が豊富で安い)チョコレート、パテ、オリーブ、ケッパー、乾燥トマト、干しポルチーニ、アンチョビの瓶詰、サラミ、(イタリアのハム類は美味しい・・が日持ちしないから)など・・スーパーで買ったものを部屋に戻りトランクに詰め、最後に再びドゥオーモまでトラムで向かった。ミラノ在住の娘の友人が是非にと勧めてくれたドゥオーモのてっぺんまで料金を払って娘とエレベーターで上がってみた。見納めのミラノ、あらためていい旅だったという思いが湧いてきた。来る時は一緒だった娘はこの先まだ一ヶ月の予定でミラノに残る。Photo おっとりと静かな娘だ。持つ物へのこだわりはあるが、無駄遣いはしない。彼女の着ているコートは高校三年生の時に、ほしいと言われて買ってやったものだ。襟巻きは彼女が買ったものだが、大学を卒業して、自分で働くようになってもまだ着続けている。ミラノは寒い・・と聞いていたからと、東京駅で待ち合わせた時、見慣れたコート姿で現れ、変っていないな・・と思ったものだった。ドゥオーモの脇に有名だというリナシェンテというデパートがあった。時計を見ながら大急ぎでデパート地下の食器売り場に行き、コーヒーマグカップを買った。真っ白な大ぶりのマグの取っ手はきれいなプラスチックの緑色。モダンなデザインだ。いつも使っているお気に入りの湯町のマグにひびが入っていたから、これは自分へのお土産。形に残るお土産は毛糸の手袋とマグカップ・・・。これで充分・・・。ホントニ・・。
Photo Milano_centrale 買い物も済ませ、トラムでミラノ中央駅へ。見納めのミラノ中央駅。初日に空港からやはりここまで来て暗がりの中で初めて見たときはなんともいかめしい感じで内側に入ることも躊躇われた駅も何度も列車で発ち到着している間に懐かしい駅になった。中に入るとアーチ型の天上が美しく、同じフロアに発着20番までものホームが並び、昔観た映画のシーンが思い浮かぶような造りだ。この駅の外側に並んでいる何本かの空港行きのバスの中から時間と料金を聞いて丁度いいバスに乗って空港に向かった。搭乗手続きを済まし、後は時間まで最後のカップチーノとハム入りパンを食べて(本当は少し豪華なものを食べたかったけれど、残念ながらそのような店は無かった)娘と友だちに見送られて飛行機に乗った。成田まで12時間半。長い飛行時間だ。窓側の席に座り飛行機が離陸してしばらくはアルプスの山々を見下ろし、更に時間が経つと雲の上の空はオレンジ色に染まり始めた。そしてそこをあっちにもこっちにも飛行機雲が白い筋を伸ばしていた。あぁ・・こんなに飛行機が飛んでいるんだナァ・・と思った。次、また健康で旅行できるだろうか・・・?出来るとしたら何処へ・・?まずは・・忙しく働いている夫を大好きなハワイに送り出してあげたいものだ・・などと思いながら・・・私はゴンゴンと眠った。眠ることこそ元気の元。きっと人様には見せられない姿だ。隣の席の女性達、「眠れなくて・・・」と言っていた。長い飛行時間の行き帰り、今回は一本の映画も観ることなく・・・眠ったのだ・・・。自分に言う。眞理子、元気で・・!と・・。

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Toggenburg(valley)

This is a fairrytale world.
only an hour's drive from Lake Constance
and the city of Zurich.

険しい山々に囲まれた「おとぎの国のようなトーゲンブルグ」と言われている所に泊めてもらったセカンドハウスはあったのだ。案内板の赤い矢印の現在地 Unterwasser からゴンドラに乗り中継地点で一度乗り換えてチーズの山と呼ばれている?Chaserrugg.2262mまで登った。コートにポシェット姿の私たちは、スキーヤー達には奇異に見えたかもしれない。ゴンドラから降りるとみんなあっという間にスキーをセットし、気持良さそうに岩手山より高い位置から滑り降りていく。どこまでも続く山々・・・はるか向こうには、ドイツか・・?オーストリアか・・?スキーの出来ない私は誘われなければこんな経験はできなかった。

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ミラノからの帰りの飛行機で独り窓際に席を取ったが隣2席は後から話してみると53歳と60歳の札幌からの女性で8人ツアーでコルチナダンペッツォで連日スキーに明け暮れたツアーだったと言っていた。札幌なら周辺には良いスキー場もありわざわざ外国まで出かけなくてもいいのでは・・?とつい知らない者の言葉が口をついて出てしまったが「雪質も景色も違う。体力とお金が続く限り何回でもどこまででも行って滑りたい。去年はカナダ、今年はイタリアだったから、来年はスイスを考えようかしら」と話していた。旅行費用、そしてきれいなホテル、スキーのための毎日のリフト券費用・・総額で40万円は越えたかな・・?」と話していたがそのために頑張って一年お金を貯めて働くのだと・・。行きも帰りも同じアリタリアの飛行機、私は今回いくらお金がかかっただろうか・・・?格安航空券に原油高騰のためのオイルチャージが加算されても飛行機代は往復で12万円弱。一日目のホテル代が1万円ぐらい。リヴォルノでの2泊、イタリア、スイスでの電車、バス代・・食事代、・・いつも目いっぱい動いていたし目的があったので買い物の時間が全くと言っていいほど無かった。ファッションの街ミラノなどはどこの店も50~70パーセント引きのセールシーズンでブランド品のバッグを幾つも抱えた人たちもたくさん見かけた。最後の日、空港に向かう前の時間にスーパーマーケットでチーズやサラミや乾燥ポルチーニ、オリーブやケッパーなどバッサバッサと買い物籠に入れトランクに詰め込んできた。国内移動の新幹線や成田エクスプレス(これらが高い!)それら一切合切合わせて旅行代金は27万円ぐらいか・・。ミラノに知人がいてアドヴァイスしてくれた。チューリッヒでベアトリスにお世話になった。これらはここにお金で計算できていない。おかげさま・・・感謝でいっぱいだ・・。スイスに行ってみたいと言っている友人がいる。今は効率よく回るツアーもいっぱい企画されている。どんな方法でも、健康で思いがあれば、実現できるよ・・と言いたい。話は飛ぶが昨日、夫は還暦特別クラス会があった。彼は5月で60歳になる。一クラスの中で亡くなっていた人が一割。実際は連絡の取れない人の中にもう少しいるかもしれない。癌や糖尿病や心筋梗塞と頑張って戦っている人がいた・・と夫は指を折って数えていた。健康でいられるということのなんとありがたいことか・・・。自分にもそして誰にとってもきっと、決して良いことばかりではない日々の暮らしを大切にしながらも、先に夢や楽しみを持つということがどんなに人に頑張る力を与えてくれるか・・大切なことだと考えている。身近な人や友人の笑顔や喜ぶ姿を見るのは嬉しいことで、こちらまで幸せな気分を分けてもらえる。2262mの山から下りてチューリッヒ17:09発の列車に乗りミラノ中央駅には21:35に着いた。駅の近くで娘と軽い晩ご飯を食べトラムに乗って帰りお風呂・・・いよいよ明日は独りで帰国だ・・眠らなければ・・・とベッドに入るとメールの着信。夫からだった。「旅行もあっという間にいよいよ明日は帰国ですね。気をつけて帰ってきてください」と・・。私は「あっという間ではありませんでした。長い長いそして濃い旅でした。出してくれたことに心から感謝しています。ありがとう」と返信したら涙が出てきて、そのまま 眠った。

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山の家の夜が明けて

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いいお天気だった。
夕べ暗くてよくわからなかった地形やセカンドハウスの外観が見えた。
ベアトリスのおばぁちゃんのセカンドハウスは集落の中でも立派な家だった。この辺りでは景観を変えないために新しい家の建築許可をもらうのは難しく、また、既にある家の外観も形を変えたり色や素材を変えたりすることは許されないのだとベアトリスが説明してくれた。外は変えられない代わり、内側はどんなにきれいにも便利にも改装できるのだという。夕べの残りや紅茶を飲みながら、ベアトリスはシーツを洗濯機に放り込んだ。こうやって自分達が使ったものはきちんと後片付けして帰るのだ。屋根裏部屋には広い洗濯干し場があって何本もロープが張られていた。そこにシーツ3枚、バスタオル、タオル・・を干した。食後の散歩をしましょとベアトリス。私たちはまだ自分達がなんという村にいるのかわからない。何しろ、ガイドブックも見てこなかったし、もちろん、持っても来ていない・・。こんな旅もあるんだ・・と人事のように思っていた。外に出るとうっすらと積もった新雪にあちこち動物の足跡が見える。大きいもの、小さいもの・・・ウサギ、キツネ・・などとベアトリスが言う。自分の足跡を並べて付けてみた。

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散歩しているとチェンソーの音。遠くで横倒しにした木を切っている人が見えた。
ベアトリスがヤコブだ・・と説明してくれた。彼はこの辺一帯の家々の改装を全部手がけているのだという。ヤコブはみんなに頼られ好かれているという。私たちがこちら側から「ヤコブ~!」と叫ぶと気がついてチェンソーの音は止み、私たちは雪を漕いでそばまで行った。てっきりおじいさん・・とばかり思っていたヤコブはそばに寄ってみると立派な体躯の若者だった。握手をすると、これまで出会った人の中で一番厚くて大きな手。私は長く握ってその大きさを褒めた。そばにはリンゴの木が一本。イタリアもスイスもリンゴの実は小ぶりで硬い。盛岡の浅沼さんの美味しいリンゴを思い出した。少しのつもりが結構な時間散歩した。遠くに見える山が美しい。ベアトリスは帰りの時間をしきりに訊く。どうしても山のてっぺんに連れて行きたいので午後の時間を山登りに当てよう・・と強く勧められた。どんなふうに登るのかも見当がつかないままOKし、帰りの列車は夕方のにすることにした。ハウスに戻り荷物を車に積み、ベアトリスのおばあちゃんのゲストブックに一晩泊めてもらったお礼を英語と日本語で書き、娘はイラストを描いた。ページをめくると、各地からいろんな人たちがここを訪れ感謝の言葉を残して帰っていることが分った。こんな機会をいただけて、心からありがたいと思ったことだった。戸締りをし、また鍵を管理してくれている農家に寄った。夕べはちゃんと認識できなかったが、牛も馬も飼っていて、その乳で作ったチーズや、自家製ジャム、蜂蜜などを小屋で無人販売もしていた。小屋の外には珍しい模様の猫。思わずパチリ。こうしてセカンドハウスはまた無人に。次はどんな人たちがファミリーの誰に連れられてやってくるのだろうか。私たちはこの後散歩で見た「のこぎり山」(・・と勝手に私が名づけた)の一番左のとんがっていない山のてっぺんまで登ることになったのだ。

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チンプンカンプンの夜

辺りが薄暗くなってきた頃、ベアトリスが言った。「他に何か見たいものが無ければこれからおばあちゃんのセカンドハウスに泊まりに行きます。マーケットでワインなど、今夜と明日の朝食べるものを買いましょう」と。私はエジソンからベアトリスは日本のお茶が好きと聞いていたので来れる時のためにと玄米茶と缶入りのお抹茶、茶せんのほかに乾麺(稲庭うどん、蕎麦)そばつゆなどをお土産に持ってきていた。袋に入った乾燥葱や海苔、唐辛子も。今夜のご飯はそれらを使って私が「そば」を作ることに彼女は喜んだ。買い物をし、地下駐車場から車を出すと彼女は「さぁこれから100キロ山に行きます」と言うではないか!私はてっきりチューリッヒ郊外、盛岡で言えば、岩手山麓ぐらい・・と思っていたので100キロはちょっとビックリだった。ブラジルのエジソンが言っていた。日本の50倍もの面積を持つブラジルでは彼は500キロも800キロも大して変りはない。自動車運転、そのくらいは当たり前と・・・。近場しか運転しない私にとっては100キロも遠い部類になってしまう。「ベアトリス・・・それで・・どこに行くの・・・?」彼女は行き先を言ったと思うのだが私には馴染みの無い地名ばかり、聞き取れなかった。わずかに「リヒテンシュタインの方向」だけは理解できたが、恥ずかしながら、チューリッヒしか頭に無かった私には周辺の予備知識も何にも無かった。しょうがない・・・昨日決めて今日ここに来たのだからと思った。暗闇の中、車は走った。車の中では日本のこと、そしてエジソンのこといろいろ話した。二人で彼のことを話し何度も笑った。遠いブラジルでエジソンは何度も何度もクシャミをしたに違いない。ベアトリスが坂道を下った。セカンドハウスの鍵を預けているという農家の前で車を止めて鍵を受け取り、私も挨拶をした。彼は私の理解できない言語、ドイツ語?だった。急な坂道を苦労して(凍結のため)上がり、私たちはやっとそのセカンドハウスに到着した。ビックリだった。立派・・立派・・・!ベアトリスは幾つものベッドルーム、お風呂場、洗面所、トイレを案内した。私と娘の眠るベッドは緑のベッドをとあてがわれた。とりあえずお腹が空いた。ワインが好きというベアトリスは早速開けて、グラスに注ぐと乾杯し、買ってきた小さなオードブルをつまんだ。飲みながら食事の支度をしましょうと言う。システムキッチンだ・・・。鍋も食器も瓶詰缶詰調味料なども何から何までたっぷりと揃っていた。ティーポットもカップも大きなボールも気がつくとみんなロイヤルコペンハーゲンのものだった。私はベアトリスのおばあちゃんの「お金持ち度」がやっと理解できた。ヒャァァ~と驚いてしまいたかったが、私のキャラではない・・。遅い食事、食後のお抹茶、小さく切った洋羹、・・そしてお風呂・・どこにいるのかわからない夜は更けていた。眠る前小窓のカーテンを開けて外を見た。月明かりに雪景色が青白く美しかった。

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スイス・チューリッヒへ

Carlaと会って話し思い残すことなく(帰りの汽車の中から夕暮れのトスカーナを見て、マンマを思い出しやっぱり会いたかったな・・と、独りで泣いてしまったが)ミラノへ帰り、ヴェニスにも行きたいが、私を待っていてくれる人がいるチューリッヒに行くべきだろうと思い、ミラノで私の帰りを待っていた娘に「一緒に行くなら、明日の朝は早起きだよ。スイスに行く」と告げた。話は遡って12月31日のこと、除夜の鐘が鳴っている最中、毎年のことだが、地球の反対側ブラジルの日系三世、エジソン伊藤久由紀から電話が鳴った。「あけましておめでとうございます。お元気ですか」と。彼は9年前県費留学生として盛岡に一年間滞在した。日本語が充分ではなく、留学の目的は語学ではなかった彼に日本語を学ぶカリキュラムは組まれていなかった。ボランティアで日本語に関わっていた私は県の国際交流協会を通して彼を紹介され、それから毎週、彼と会話の時間を持った。日本文化に強く興味を持っていた彼は、日本語を覚えるのももどかしく、合気道に通い、お寺の座禅会に参加し、我が家に来ると息子のように、文化の違いの戸惑いを訴えたものだった。「エジソン、一月になったらイタリアに行って来るよ」と何気なく話したその言葉がきっかけだった。2日ほど経って「眞理子先生(実際は先生ではないが、彼はいつも私をそう呼んだ)ミラノに行ったら、ぜひチューリッヒに行ってください。私の恋人がそこにいます。ミラノから電車で3時間半で行けます。もう彼女には話しました」と言うのだ。彼女の名前はベアトリス。彼女の母親はチューリッヒからブラジルへ渡り結婚し、彼女はスイスとブラジルを行ったり来たりしているのだと聞いた。スケールの大きい話だ・・。それから何度も「行ってください。彼女は待っています。電話してください」のメール攻勢。仕方なくある晩時差を考えながらスイスまで電話して知らない彼女と話した。私の旅の目的、エジソンに勧められたがどうなるか分からないので行けるかどうか返事ができないと。彼女曰く。「イタリアから電話下さい。待っています」と。私のイタリア行きの目的が一段落したわけで・・彼女に電話し・・お言葉に甘えてこれも何かの縁に違いない・・とスイス行きを決めた。1月24日目覚ましで起き、娘と二人、ミラノ中央駅8:25発Zurich Hauptbahnhop(チューリッヒ・・・あちらの人たちはズーリックと発音していた)に向けて出発した。コモ湖周辺など・・車窓からの山々と湖の眺めの美しさには目を見張った。想像していた以上の美しい景色だった。キアッゾは国境の町か・・。パスポート提示を求められ、乗客一人ひとり言葉をかけられ、列車は長く停車した。列車で国境を越えるのは初めての経験。その後、Lugano ,Bellinzona , arth-goldau ,zug ,と列車は走り、12:51にチューリッヒに着いた。大きな駅だ。携帯電話で連絡を取り合いながら駅舎の中でベアトリスと対面した。チューリッヒの町を夕方まで案内しますと彼女。友だちから借りたという真っ赤なボルボで来てくれた。駅前のちょい止めの駐車場から大きな大きな地下駐車場に車を移動させ(地下5階)私たちは美しいチューリッヒの街を散策した。公園、シャガールがデザインしたステンドグラスのある教会、そこで天から降ってくるようなパイプオルガンの演奏も聴いた。老舗の大きなチョコレート屋さんの2階でティータイムをとり、裏通りの石畳も歩いた。思いがけないチューリッヒの街・・・来て良かったと思った。

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2月19日は・・

父の命日。予定があったので前日母とお墓参りをした。12月と1月の月命日には、膝を痛めていた母が「オマエ行ってきて・・」と言って、私だけがお墓参りをした。3ヶ月ぶりの母はお墓に向かって「お父さんしばらくでした。やっと膝も治って来れましたよ」と言っていた。お墓の花活けの氷を融かすためのお湯をポットに詰めて・・・。北国はお墓参り一つも大変だ。お寺の水道は、元栓を締めて水を落としているから使えない。お墓周りをお掃除してるうちに足がジンジン冷えてしもやけになりそうだ。それでも新しいお花をあげてお線香を焚くと何となくホッとする。バレンタインデーに私が父のお仏壇に持っていったスイスのチョコレートを母は持ってきていて、お墓にもあげた。「食べよう・・!」私は包みを開けて、ナッツ入りオレンジチョコレートを欠いて母とお墓の前で食べた。母が父のお墓にも一欠けら置いたので帰りしな「お父さんのチョコ、残さないでもらって口に入れてしまって・・」と言って母に食べさした。お寺ではお供え物を置くな・・と言う。私は今は氷雪に囲まれているお墓でも陽が照った日にチョコレートがとけてお墓が汚れるのが気になったから・・・。
母の家に帰ると、母はピンポンが壊れたと言う。ダスキンさんが来た時玄関チャイムが鳴らないからと、玄関前から携帯電話をかけられたとのこと。どこに頼めば直してもらえるか・・と言われて、夫に訊くと「中の電池がなくなっているんじゃないか?」とのこと。短2の電池4本を取り替えたら大きな音でピンポ~ンと鳴って、母の喜びようは大変なものだった。良かった・・良かった・・・。我が家に帰って夜、夫の帰りを待って遅い晩ご飯の時、隣の姑がやってきて、「私は歳を取ってしまってダメだナァ~。晩ご飯を食べても10時ごろになると何か食べたくなる。喰意地が張って・・困った・・」というと彼女の息子・・夫が「自覚してるからいいじゃないか・・食いたいときには食えばいいのだ」と言った。たまたまその日夕方団子屋さんの前を通った時、切り餅を売っていたので柔らかい切り餅を買ってきていた。私は切り餅を一口大に切り、お湯を通して、買っていた黄な粉と砂糖、お塩少しを混ぜたものをまぶして小鉢に盛って「ハイ、おやつにどうぞ・・」と言ってあげた。姑は「アラ珍しい・・。美味しそう・・」と早速その場でつまんで食べたので「お番茶煎れようか・・」というと「結構結構・・お茶なら家に注いできた」と小鉢を持って帰って行った。きっとあの調子だとあの後食べてしまったと思う。まぁ・・痩せてる姑だから・・いつ食べてもいいんだ・・と・・私も思う・・。夜遅く、いろいろ食べるのは夫も私も同じこと・・。・・でもな・・・母と姑、同い年。イヤ、早生まれの姑はつい先だって母より一足先に86歳になった。・・歳を取るということは・・たいへんだなぁ・・・と私は誰でもない・・自分のエイジングを考えてしまう。左・姑と、右・実家の母(一昨年の秋、岩手山麓 網張にキノコ採りに行った時)

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Carlaに会って

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1月23日
朝を待ってマンマのマンションへ出向きCarlaに会った。
英語が話せるとばかり思い込んでいたCarlaはイタリア語オンリーだった。
この日に限ってイタリア語の辞書をホテルに置いて来てしまった。仕方が無い・・。前日のマンマの友達たちとの会話で私の心は穏やかだったので多くは望んでいなかったことを再確認した。マンマが好きだった岩手のお菓子「カモメの卵」の箱をあけて勧めながら簡単な会話を交わした。Carlaはご主人と夫婦でここの建物の管理人兼掃除雑用全般を通いでこなしていた。年老いたマンマは何かとCarlaのお世話になったようだ。玄関脇の管理人室の前を住人が通る度にCarlaはみんなにお菓子を一個づつおすそ分けし、私はその度に日本から来たマンマの友達ですと挨拶した。みんなその場で紙包みを開けお菓子を食べながら何かしら話し「buono!」美味しい・・と笑顔を返してくれた。マンマのドアの前まで行ってみた。イタリアの集合マンションはどこも丈の高い木製ドア。ドア脇のネームプレートはMenicagli のままだが、Carlaに訊くと売りに出されている家の中には何も残っていないとのこと。ドアの前で以前訪ねた時のことを暫し思い出した。ドアを開けると素敵なコート掛け箪笥があった。モダンな飾り椅子と小テーブルがあってオレンジ色のランプが置いてあった。部屋の中には丸いテーブルと椅子。シンプルなベージュの皮の長いすと細長い応接テーブル。白い壁の片面には大きな本棚があり、たくさん本が並んでいた。マンマは大学で哲学を教えていたプロフェッサーだったが訪ねた時は既に退職していた。反対側の壁には、インドネシア(と・・私は思ったが)の趣味のいい絵が二つ並んで飾ってあった。マンマは私にお風呂場まで見せてくれたっけ・・。きれいな色のバスタオルがかかっていて、家全体がすっきりと豪華ではなかったが美しかった。丸テーブルでマンマが作ってくれたトマトスパゲッティやイカ墨の煮物、スープなどをご馳走になったっけ・・。Carlaは管理人的仕事はしていたが、当たり前のことながら個人のプライバシーに関することは知らなかった。家の売却に関しては全く分からない様子だった。ローマの妹さんがたまに来ていたと話したので「ローマで会ったことがありますよ。ジョバンナという名前ですね」と言うと驚いていた。既に荷物も残っていないこの場所にパトリツィアやジョバンナがもはや来ることが無いかもしれない、そんな気がした。17年前マンマは私を乗せて車を運転し、このマンションの前まで来ると車からリモコンで表フェンスを開けて車を中に入れた。イタリアの公的道路と私的空間とは、たとえドア一枚、フェンスだけとしても一歩たりとも部外者が足を踏み入れられないようなシステムになっている。日本の私の家のようにひっきりなしに、壁の塗り替えセールスマンや、物売りがピンポンを押して訪ねてくるようなことは無いのではないかと思われたが、実際はどうなのだろう。エリアが違えばまた、私の感想も違ったかもしれないが、ミラノの町でも同じような思いを持った。友人は外からは自分の部屋に入るまで3つの鍵を使わなければならなかった。道路に面した建物の入り口鍵、中庭を少し歩いた所で次の鍵、そして階段を上がって廊下を通り自分の住空間の鍵だ。内側から外に出るときは部屋の入り口以外の二つはボタンを押せば開くようにはなっていたが、どう考えてもセールスマンや部外者はまず最初の入り口でどうにもならないのだ。Carlaに別れを告げると私はホテルに戻り、精算をして、バスに乗りリヴォルノ駅からジェノバ経由、今度は乗り換え無しでミラノまで行ける列車に乗った。また来ることはあるだろうか・・リヴォルノの駅。
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テラス・マスカーニ

HOTEL REX でマンマを知っている人たちといろんな話が出来、幸せだった。お孫さんと一緒に来ていたマッシモさんと言う人が、メールアドレスを書いてくれて、私がデジカメで撮った写真を送ってほしいと言った。受け取ったらみんなに配信すると言うのだ。パソコン時代の恩恵。私は帰って来てから約束どおり、短い英語の文を書き、10枚ほどの写真を2度に分けて送ってやり、お礼のメールももらった。写真を整理しながら、平日に孫と一緒にのんびり日光浴を楽しめる彼らは、生活にゆとりのある人たちなのだろうか・・。Patriziaは夏休みの度にどこかの海辺から絵葉書をくれたっけ・・。長い夏休みを楽しみにしながら働いている・・そんな感じを持ったものだったが、今回短い旅でも、個人の権利を主張?しながら働いている国民性というようなものを感じ、それはまた後で書いてみたいと思っている。Hotel Rex を後にし、またバスに乗り帰路についた。周囲にバス券を売るような所はどこも見当たらなかったので、バスの運転手さんから券を買った。そしTerrazza Mascagniで下車した。このテラス・マスカーニはどこまでも続く海沿いの公園テラス。市松模様が美しい。ゴッドファーザーの撮影にも使われた場所と聞いたが、私自身は確かめていない。車などは乗り入れ禁止。のんびりと散策し、海に沈む夕日を楽しもうという人たちがパラパラとやってくる。こんなロケーション、日本なら食べ物やさん、飲み物やさんの屋台でも並びそう・・と思うのだが、いたって静か、おせっかいなBGMも録音案内も一切無い。お陰で私はマンマの海の続きを夕日が沈むまで長い時間、独りで感傷に耽ることができた。このテラスの名前はこの街リヴォルノ出身の作曲家ピエトロ・マスカーニからつけられた。マスカーニの作曲したオペラはこれ一曲だけが有名な「カヴァレリア・ルスティカーナ」。なんとも心に響く美しい旋律の曲だ。オペラとしては一本立てでは短すぎるので、他のオペラと組で上演されることが多いようだがオペラの筋立ては置いておいて、カヴァレリア・ルスティカーナという美しい曲とこのテラスはとてもお似合いのような気がした。
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Annamaria ②

午後の時間がポッカリ空いた。昔、マンマが頼んでくれ、私と次男を送り迎えしてくれた HOTEL REX に行って海でも眺めながらコーヒー飲んで来ようか・・と思った。殆どの路線バスが通るピアツァ・グランデまで歩き、タバッキで1ユーロ(約160円)でバス券を買い、1番のバスに乗った。終点が南海岸沿いHOTEL REXの手前になっている。イタリアのバスもトラムも距離には関係なく同一料金、時間内であれば同じ券で他ルートへの乗り換えも可能だ。結構な距離、街の中心部を抜けると海沿いを走る。ミラノとは違って陽射しが暖かい。着ているコートが暑い位に感じられた。走り去る景色に見慣れた風景があった。イタリアでバスやトラムに乗るときは決まって運転手席に近いところに座ったがその日もすぐ後ろに座っていたのを立ち上がり、客席とはアールの衝立で区切られている運転手さんを覗き込むようにして「あそこはテラスマスカーニですか?」と訊くとそうだという。マンマが絵葉書を送ってくれた所だ。17年前、送り迎えしてもらったマンマの車からは気がつかなかったが・・「こんな所にあったのか・・」と感慨深く、帰りのバスでは途中下車して歩いてみようと思った。バスの終点から歩いてHOTEL REX はすぐだった。ここだ・・ここだった・・懐かしい思いで入り口に立つと「クローズ」レストラン入り口も鍵がかかっていて入れない。あぁ・・せっかく来たのにどうしたことだろう・・とがっかりしながら、岸壁に建つホテルの裏側へ回って海を見てみようと横脇から海に向かった。ホテルの裏側から海まで続くテラスで男の子が二人ボールを蹴っていた。こんな所で・・近所の子たちかなと思いながら数枚写真を撮った。南沖にはエルバ島、コルシカ島のある地中海・リグリア海・・・マンマの海は波が荒かった。帰りのバスを待とう・・ゆっくり坂道を歩き出すと空っぽの駐車場に赤い車が入ってきた。見ると母娘らしい二人連れ。私は咄嗟に声をかけた。「ホテルはクローズですが、ここへ何をしにいらしたのですか」不躾な質問だっただろうに「泳ぎに来たのよ」と笑顔。「ここで泳げるのですか?見に行ってもいいでしょうか・・?」なんだか必死だった。「どうぞ」と言われ私は上ってきた道を一緒に引き返した。頭の中にマンマの手紙に書いてあった言葉がクルクル回って思い出された。「マリコ、私は冬でも泳いでいるんだよ・・・」「あのホテルの所の海でしょっちゅう泳いでいるんだよ」 連れて行かれた所は写真を撮った所からは死角になっていたホテルの地階片隅。見ると10人ぐらいの人たちが水着姿でのんびりと日光浴をしていた。私は怪しまれないようにまず握手を求めながら自己紹介をし、どうしてここにやって来たかを説明した。アンナマリアに連れられてここに来て泊まったこと。逢いたくてまたイタリアまで来たけれど彼女は残念ながら亡くなっていたこと。時間が空いたので、海を見ながらコーヒーを飲もうとやってきたけれどクローズでがっかりしたこと・・・。すると、どうだろう・・・!そこにいた誰もが「僕達はアンナマリアの友だちだよ!彼女は歳をとってもいつもここに来て泳いでいたよ!まるでペンギンのようにチョコチョコ歩いて、そこの海で殆ど立ち泳ぎのように1時間も海に浸かっていたよ!」あぁ・・なんということだろう・・!!!マンマは私を呼んでくれた!!!涙が溢れた。そして彼らは更に言った「彼女が亡くなったことはしばらく僕らにも知らされずに寂しい思いをしたよ。だけど、彼女の遺言で彼女の骨はグラインドされて、ここの海に撒かれたんだよ」と。こんなことがあるんだ・・・・。不思議ね・・・マンマ・・。私はマンマに逢えたね・・!!!逢いたかったマンマに会えた・・・。私の心は納得した。
Mamma Photo

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Annamaria①

1月22日。ウェイクアップコールを頼んでいた7:30より1時間は早く目が覚めていた。
待ちきれずに8時半にはホテルを出て周りの家々を見ながらゆっくり歩きマンマのマンションに向かいその前で待った。Carlaが来たら、マンマがどんなふうに亡くなってお墓がどこか聞こうと思っていた。行ける所なら行ってお花をあげたいとも思っていた。9時を過ぎても誰も来ない。外出しに出てきた住民に「すみません・・Carlaさんが9時に来られると聞いて待っているのですが・・・」というとその人は一旦中に入って行き、戻ってきた。「Carla は今日は休みになっています。出勤札が裏返してありますから・・」と言った。私は ガッカリした。せめて電話番号だけでも教えてくださいませんか・・と頼むとまた中に入って行き電話番号を書いた小さなクリーム色のメモ紙を渡してくれた。 CARLA  333.6093533 電話してみたが出ない。仕方なく連絡が取れるまでの時間、トマトの種を買いに行こうと思った。昔、Patrizia に連れて行かれた近くのスーパーPamでは種は売っていなかった。Bar(バール)に入り、生ハムとチーズを挟んだクロワッサン一つとカップチーノを頼んで朝食にした。食べながらマスターに「種を売っている所を教えてほしい」と頼んだらいろいろ調べて,二つ店の名前と通りを書いた紙を渡してくれた。近いほうの店を選んで歩いたつもりだったが,えんえんと遠くまで歩くことになった。これもよし・・・だ・・・。途中、ミモザが咲いていた。ミモザの黄色は私の大好きな色で元気をくれる色のはずだった。
Photo_317年前リヴォルノに来た時は2月中旬。その時もミモザが咲いていて心に強く残った花だった。4年前実家の父が亡くなったのは2月。仏事を終えて3月初めにふらりと出かけた先でもミモザが咲いていた。そして今回思ってもいなかったことだったがミモザがまた咲いていた。寒い岩手では見ることのない花だ。ミモザは私にとって ノスタルジーの花色になったかもしれない・・。どのくらい歩いたか・・かなり歩いたような気がしたが教えてもらったBiricotti という店に着くと道路を挟んだ向かいは大きな墓地になっていた。マンマを思った。店はとても大きな園芸店でハウスの中には色鮮やかな花々が咲き乱れていて一時華やいだ気持になり、トマトの種はPhoto_2もちろんのこと、野菜や花の種をたくさん買った。
満足した私は帰りはもう歩く気力がなかった。店の前からバスに乗ってホテルまで帰った。ホテルのフロントでCarlaに電話してもらうと今日はこれから予定があるので明日9時にもう一度来てほしいとのこと・・・。私はその場でもう一泊を申し込んだ。午後の時間がポッカリ空いた。

  

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livornoへ

ミラノ発リヴォルノ行きは乗車券を買いに並んだ時は直行便はなくジェノバ経由かフィレンツェ経由かどちらかだった。昔、フィレンツェには行った。ジェノバは行ったことがなく少しだけ早く着くという理由でニース行き ジェノバで10分間(少し心配だったが)でローマ行きに乗り換える切符を買った。6人がけコンパートメントの列車ジェノバまでが15.5EURジェノバからリボルノまでが16EUR 合計片道5000円ぐらいの計算になる。コンパートメントのメンバーはビジネスマン風中年男性二人。中年夫婦一組。ベルガモから乗ってジェノバで一緒に乗り換える(乗り換えはこの女性に助けられた)というヴァージニアという若い女性。そして私。 結構話が弾んだ。「oggi e mia compleanno. ho cinquantasette anni」と言うとみんな「Buon compleanno!」「Auguri!」おめでとう~!と祝ってくれた。そして「マリコ、そう見えないよ・・」とも・・・。リヴォルノの駅に着いてバス券を一枚(1EUR)買いVia Romaの近くまで20分ぐらいも走ったろうか・・・前のときは元気なマンマが駅まで車で迎えに来てくれた。記憶とは不思議なもので見慣れた?建物マンマのマンションの前には意外なほどあっさりと立つことができた。集合マンションの表札の中に「Menicagli」の名前を見たときには「あぁ・・まだ大丈夫だ・・どうにかなる・・」と正直に思った。けれど・・押したブザーに応答はない。誰か住民が帰ってきた。私は話しかけた。答えは「メニカーリさんは亡くなりましたよ。娘さんはフィレンツェに行ったと聞きました。お家は売りに出ています」だった。やっぱり、マンマは亡くなっていたか・・・。思わず涙がこぼれた。先のご婦人が「あなたがここまで来たこと、神様は見てらっしゃる・・」と慰めてくれた。そして、マンションのメードでマンマの世話をよくしてくれたCalra という女性が明日の朝になれば出勤するので明朝来なさいと言われた。通りを歩いて最初に目に入ったホテルに宿泊を申し込んだ。小さな「 Hotel Marina 」受け付けが私と同年代に見えたお母さん・・?(考えてみるとMariという音は親しみやすいに違いない・・。私の名前はどこに行ってもすぐ覚えられた。世界中に共通する音・・ Annamaria,Mariko,Hotel Marina..............)英語で応対してもらったので助かった。中から背の高い高校生か大学生くらいに見える青年が出てきた。ホテルは決してきれいとは言えなかったが何よりマンマの家に近かった。だだっ広い部屋にベッドが3つ、私は真ん中のベッドに寝て高い天井の不思議な絵を眺めながら 朝を待って眠られない夜を過ごした。写真はスーパーで買ったトマトとホテルの部屋の天上。003 001

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イタリアのマンマ・Annamaria Menicagli

Photo Annamaria Menicagli
Patrizia Menicagli
Via  Roma 103
57100  Livorno  ITALY

イタリアのマンマ。高校一年のとき同じクラスのナカイさんが「文通クラブ」?にたくさん寄せられた外国からの手紙を持ってきて「英語で手紙を書いて!」とクラスメートのみんなにまるでトランプ札のように配った。美術の好きな私はイタリアの同い年のPatriziaの封筒をもらった。以来40年、子育ての時期には少し間隔が空いたけれど、長い長い年月、彼女と彼女のお母さん(私はマンマ・テタと呼んだ)Annamariaとの付き合いが続いた。17年前、次男が中学の時、お定まりの反抗期がひどく、考えた末、次男とのイタリア旅行を思い立った。「反抗ばかりしているRだが、言葉の通じない外国に行ったら、私の後をついて歩くしかないだろう」そんな考えが私にはあった。困った時に、浮かんだのが長いこと手紙をやり取りしたPatriziaとAnnamariaのことだった。彼女達は優しく受け止めてくれ、たくさんの思い出をくれた。戻ってからも年に何度かの手紙、年に一度の電話が続いた。去年・・・いいえ・・もう一昨年のことになってしまったか・・電話をした時マンマは言った。「マリコ、私は85歳になった。あちこちダメになったよ・・・」と。飛んで行きたい思いはいつも胸に強くあった。早く行かなければ・・・と・・。けれど、慌しく過ぎる生活の中でなかなか簡単に実行できることではなかった。難しい状況は変らなかったけれど、娘が「親しい友だちがミラノで研修している。一緒に行こう」と言ってきた。次男は笑いながら言った。「僕はイタリアにはもう行きたくないけれど、母は行ってこなくちゃいけないでしょ!?行ってきて!」いろいろな条件が「行っておいで」と私の背中を押した。今しかない。私はイタリア行きを決めた。マンマに電話した。いつもの「プロント(もしもし)」の返事は何度電話かけてもない。しまいには「この電話は現在使われておりません」の早口イタリア語の録音に切り替わった。手紙を書いたが返事がない。あぁ・・マンマは入院したか亡くなったかもしれない・・・。後悔と不安が広がった。それでもいい。私はイタリアの往復航空券と到着日のホテルだけをJTBのカウンターで予約した。年が変ろうとしていた暮れのことだった。誕生日の1月21日ミラノ中央駅でジェノバ経由リボルノまでの切符を買い4時間半列車に揺られた。写真はミラノ中央駅

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